Tachihara Michizo Memorial Museum
立原道造略年譜
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立原道造1914―1939
銀座「ニユー・トーキヨウ」にて
1938(昭13)年春 23歳
1914(大 3) 0 7月30日、東京市日本橋区橘町に生まれる。父貞治郎、母トメ。
立原姓は母方の家系で、近い祖に水戸藩の儒者立原翠軒、画家杏所を持つとされ、
荷造り用の木箱製造を家業とする。
1919(大 8) 5 父の死去により家督を相続するが、家業は母が取り仕切り、後に弟達夫が継ぐ。
1921(大10) 7 東京市久松尋常小学校入学。在学中首席を通す。
1924(大13) 10 この夏から一高卒業まで、御岳山での避暑をほぼ恒例とする。
1927(昭 2) 13 東京府立第三中学校入学。以後卒業まで多彩な活動を展開し、殊にパステル画では
抜群の才能を発揮する。
国漢教師の橘宗利について作歌を始め、北原白秋を訪問し、口語自由律短歌を『学
友会誌』に発表する。
自選の歌集『葛飾集』『両国閑吟集』、詩集『水晶簾』をノートにまとめる。
1931(昭 6) 17 第一高等学校理科甲類入学。一高短歌会会員となり、前田夕暮主宰の『詩歌』に
連続して投稿する。
物語「あひみてののちの」が『校友会雑誌』に掲載され、一高文壇の寵児となる。
秋、堀辰雄の面識を得、以後兄事する。
1932(昭 7) 18 同人誌『こかげ』を創刊する。
一高文芸部の編集委員に選任され、杉浦明平らの上級生に伍して活躍する。
手づくり詩集『さふらん』を制作する。
1933(昭 8) 19 手づくり詩集『日曜日』『散歩詩集』を制作する。
1934(昭 9) 20 東京帝国大学工学部建築学科入学。自宅の居室を屋根裏部屋に移す。
同人誌『偽画』を創刊する。
夏、初めて軽井沢を訪問し、以後、毎夏、信濃追分の油屋に滞在する。
室生犀星、萩原朔太郎を識る。
堀辰雄が実質的な主宰者であった『四季』[第2次]の創刊に加わり、三好達治、
丸山薫、津村信夫とともに編集同人となる。
第2号に組詩「村ぐらし」「詩は」を発表し、詩壇に初登場する。
1935(昭10) 21 課題設計「小住宅」により辰野賞を受賞。以後卒業まで、3年連続して受賞する。
同人誌『未成年』を創刊する。以後晩年まで、『四季』を主な舞台として、青春の
憧れと悲哀を音楽性豊かな口語で謳ったソネット[14行詩]を発表し、詩人とし
て活躍する。また、『コギト』『作品』『新潮』『文芸』『文芸汎論』などから
寄稿依頼を受け、詩や物語を発表する。
1936(昭11) 22 シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出し、山本文庫として処女出版する。
卒業論文「方法論」を提出する。
1937(昭12) 23 卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」を提出する。
東大卒業後、石本建築事務所に入社し、建築家として将来を嘱望される。
「豊田氏山荘」を設計する。
手づくり詩集『ゆふすげびとの歌』を制作する。
自装の第1詩集『萱草に寄す』、第2詩集『暁と夕の詩』を出版する。
冬から翌春にかけて、独居住宅「ヒアシンスハウス[風信子荘]」を構想する。
1938(昭13) 24 「秋元邸」を設計、施工する。
春頃から水戸部アサイと愛し合うようになる。
夏、肺尖カタルのため休職し、大森の室生犀星邸、信濃追分油屋で療養する。
第3詩集『優しき歌』、同人誌『午前』を構想するが、未刊となる。
秋、盛岡市の生々洞に療養のため1か月ほど滞在する。
冬、転地療養のため向かった長崎市滞在中に喀血する。
帰京後、東京市立療養所に入所し、婚約者アサイの手厚い看護をうける。
手記[盛岡紀行][長崎紀行]をノートに綴る。
1939(昭14) 第1回中原中也賞受賞。見舞いに訪れた友人たちに《五月のそよ風をゼリーにして
持つて来て下さい》と願うが、3月29日、病状急変し永眠。享年24歳。
※筑摩書房版『立原道造全集』刊行開始(2006.11)にともない、固有名詞の表記を新字に改める。
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